おはようございます。
ワオのメルマガ担当の松本です。
今日からゴールデンウイーク。10連休の方も多いのではないでしょうか。
WAO!も本日から10連休に入ります。
連休明けは、5月7日(火)からです。
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私は、97歳になる祖父が、『最後の旅がしたい』とぽつり。
遠方は無理なので、原鶴温泉に一泊二日の小旅行へ行って参ります。
無事、帰還できれば良いのですが・・・・・。

皆さまは、何かご予定はありますでしょうか。
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さて、すでにご存じの方も多いかと思いますが、5月31日(金)から6月2日(日)
までの3日間、エルガーラホールギャラリー(福岡・天神)にて、
『斉藤和~桃山絵画からの伝言・美しき日本画展』を開催致します。
それに先駆けて、桃山美術とは何だったのか、その当時活躍していた
画家の紹介とともに、ご案内して行こうと思います。
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第一回は、この時代最高峰の画家『狩野永徳』とは何者だったのか、
そのお話をしようと思います。

ちなみに桃山美術は、織田信長と豊臣秀吉が天下人として活躍した、
16世紀後半から17世紀初頭、半世紀に満たない短い時代に生み出された
美術のことを言います。
この時代の美術は振れ幅が大きく、金箔を使った絢爛豪華な障壁画もあれば、
極端に飾りを廃した詫び茶もあります。
とにかく何でもありの、美術がビッグバンを起こした時代なのです。
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そしてこの時代、画家として最も名声を勝ち得たのが、狩野永徳でした。
この人なくして桃山絵画は語れないというほど、大きな存在なのです。

先ず、彼の才能をいち早く見抜いたのは、祖父である狩野元信でした。
元信は永徳が17歳のときまで生きていましたが、その間、徹底的に英才教育を
施します。
永徳は最初、緻密で堅実な細かい絵を得意としました。
これを細画と言います。
その代表作が、現在米沢市上杉博物館に所蔵されている国宝『洛中洛外図屏風』
です。
当時23歳の永徳が描いた作品で、1574年に織田信長が上杉謙信に贈った
という記録が残っています。ただ、作品の依頼主は、足利義輝であったとする
説が有力です。

やがて永徳は織田信長と出会い、お抱え絵師として登用されます。

この二人が出会ったことで、桃山絵画の方向が定まったというほど、この出会いは
重要なものでした。

永徳は、活躍の場を得たことで、次々と巨大障壁画を描いていきます。
これを『大画様式』と言いますが、大量の障壁画の注文をこなすために、
大画様式にならざるをえなかったという面があったようです。
高さ2メートルを超える『唐獅子図屏風』はこの様式の代表作と言えます。

そして永徳の死は、1590年に、突然訪れます。
齢48歳。あまりにも早すぎる死です。
彼の死には様々な説がありますが、過労死であったとする説が最も有力だそうです。
過労死といえば、現代病のように思われますが、この時代にもあったということに
驚きを覚えます。

各時代、美術史は天才がリードします。
桃山時代の絵画史は、間違いなく彼によって切り開かれました。
そして時代はそれに従って文化を作り上げて行ったと言えるのではないでしょうか。

信長と秀吉、この恐るべき天下人二人を相手に、どれだけの重圧を感じながら
絵筆をとっていたのか。
想像するだけで身の毛がよだちます。

みなさんは、この狩野永徳という画家について、どう思われましたか?
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それではみなさん、良い連休をお過ごし下さい。
次号は、元号も『令和』に変わってからのお届けということになります。
くれぐれもお体だけはご自愛ください。