おはようございます。
ワオのメルマガ担当の松本です。
街を見渡せば、半袖姿で歩く人の姿が目につき始めています。
夏の足音が急激に近付いている印象です。
今年の夏もお暑いのでしょうね・・・。
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さて、すでにご存じの方も多いかと思いますが、5月31日(金)から6月2日(日)
までの3日間、エルガーラホールギャラリー(福岡・天神)にて、
『斉藤和~桃山絵画からの伝言・美しき日本画展』を開催致します。
それに先駆けて、桃山美術とは何だったのか、その当時活躍していた
画家の紹介とともに、ご案内して行こうと思います。
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第二回は、第一回でご紹介した狩野永徳とはライバル関係にあった
天才『長谷川等伯』です。

等伯と永徳は、年齢で四つ違い。等伯の方が年上です。
石川県の七尾で、30歳を過ぎるまで仏画師として活動していました。
すでにこの頃には画壇の中心人物になっていた狩野永徳と比較して、
等伯は、全くの無名だったことになります。

そして三十路を越えた頃、妻子を伴って、上洛することになります。
織田信長も上洛を果たした時期で、戦国の香りがぷんぷんと漂っている時代です。
等伯も野望を胸に京都を目指したのでしょう。

当時、狩野永徳は、武将好みの絢爛豪華な大画作品を次々と制作していました。
上洛を果たした等伯は、まるでその間隙を縫うように、禅林や茶道界を中心に
固定客を掴んでいきます。

そして等伯、52歳の時、ついに永徳に対し下克上を挑みます。
狩野派が注文を受けた内裏の障壁画制作のうち、対屋(寝殿に相対する建物)
の揮毫の仕事を長谷川派にまわしてもらうよう、造営奉行に働きかけたのです。
 
しかしこの下克上は、あえなく失敗に終わります。
永徳がこの割込みに対し「めいわくのよし」と抗議し、却下されてしまうのです。
絵の良し悪しよりも、お互いが政治力を使っているところに当時の画壇の背景も
見えてくる気がします。

ただこの事件があってすぐ、狩野永徳は48歳でこの世を去ります。

それからは長谷川派の独壇場です。
世は豊臣秀吉の時代に入っているのですが、秀吉の子、棄丸が三歳で早世し、
その菩提寺として京都、祥雲寺が創建されるのですが、長谷川派がそこの
障壁画を描くことになります。
この頃には、長谷川派の方が狩野派を凌いでいたと言えます。
等伯の下克上の夢は果たされたのです。
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長谷川等伯といって思い浮かぶ作品は、日本水墨画の最高傑作といわれる
『松林図屏風』ではないでしょうか。
しかしこの作品、謎に包まれています。
先ず、制作年がはっきりとわかっていません。
作風の変遷から、1593年から1595年頃の作品ではないかと言われています。
様々な説がありますが、その中でも一番魅力的に感じる説が、
等伯の子、久蔵の死に対する慟哭として描かれた作品ではないかというものです。
等伯は最初の妻に先立たれ、二度結婚しています。
そして、一度目の結婚の時に生まれたのが、久蔵でした。
久蔵は、画才があり、父である等伯を凌ぐほどの才能があったとも言われています。
ちなみに彼の代表作が、智積院障壁画の『桜図』です。
等伯は、次の長谷川派の頭として、かなり期待していたようです。
しかし26歳で早世します。(彼の死にも狩野派の陰謀説など諸説あります)
『松林図屏風』は、それまでの等伯の画風からすると突然変異のようにして生まれた作品です。
名画に謎あり。
はたして、真相やいかに。
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長谷川等伯の人生を早足で見てきましたが、どのようなご感想を持たれましたか?
どこの世界でも同じだと思いますが、ライバルがいるということは
実力を伸ばすうえでとても大切なことなのかもしれません。
直木賞にもなった安部龍太郎の小説『等伯』では、等伯と永徳のライバル関係が
克明に描かれています。
とても面白い本ですので、おススメです。
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次号は桃山時代の中でも最も謎多き画家『俵屋宗達』です。
楽しみにお待ち下さい。

それでは、季節の変わり目ですので、くれぐれもお体ご自愛ください。