おはようございます。
ワオのメルマガ担当の松本です。
皆さま、ご無沙汰しております!!
現在、弊社のホームページをリニューアル中で、メルマガの更新が遅れております。
大変、申し訳ありません。
だいぶ涼しくなって来ました。
季節は秋です。
人によっては物悲しい季節だと言いますが、
日本画の巨匠東山魁夷は違いました。
『行く秋は淋しいと誰が言ったのか。私が見出したのは、荘重で華麗な
自然の生命の燃焼である』・・・東山魁夷
それはもしかしたら、人生も晩年に差し掛かった、自分の人生に寄せた
励ましの言葉だったのかもしれません。
しかし夏が終わり、風の中に冬の寒さを感じた時、
もう一度季節の在り様を眺めてみても良いのかもしれません。
もしそこに自然の生命の燃焼する姿を感じることが出来たなら、
東山魁夷のようにまた違った目で秋という季節を感じることが
出来るのかもしれません。
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さて、「日本美術を知っていこう」の第8回目です。
時代は、鎌倉時代から室町時代へと移り変わります。
狩野派の名が、初めて歴史の表舞台に登場するのがこの時代です。
狩野派の祖である狩野正信が登場します。皆さんご存知、狩野永徳のひいじいちゃん
です。
興味深いのは、狩野派の祖である正信の画風が、「漢画」を中心に構成されていると
いうことです。
漢画とは唐絵のことで、要するに当時としては外国(中国)風の絵でした。
ただ、正信の子、元信(永徳のじいちゃん)は、大和絵の伝統を継承する土佐家と婚
姻関係を結ぶことによって、大和絵の装飾性と漢画の写実、構成力とを兼ね備えた障
壁画の新しい様式をめざしました。つまり、和漢統合の画風をめざしたということで
す。
では、狩野派の対抗勢力であった、土佐派とはどういう画派をいうのでしょう。
狩野派は聞いたことあるけど、土佐派は聞いたことない、という方も多いのではない
でしょうか。
土佐派は、平安時代以来の大和絵の伝統を受け継いだ画派です。
大和絵の諸流派のうち、最長の家系と最多の門人を誇り、武家を背景とする狩野派に
対抗して、公家的な大和絵と絵流派の中心として存続しました。
室町前期、宮廷の絵所預であった藤原行光が祖とされ、室町後期の土佐光信によって
隆盛をみました。漢画の狩野派と並ぶ画派として江戸末期まで続きます。
ちなみにこの時代、日本の水墨画が最盛期を迎えます。
鎌倉時代に中国から禅宗を学ぼうとした時、禅宗の教義を描いたものを「禅画」と呼
びますが、そのほとんどが水墨画で描かれていました。
余白に多くを語らせるその暗示的な作風と墨の濃淡だけで精神世界を表現した禅画は
武士の心に通じ、人気を博します。
ですので、日本の初期水墨画は、絵仏師や禅僧が中心となって制作が開始されていま
す。
室町時代になって幕府が禅宗を積極的に庇護するようになると、水墨画は急激に広ま
るようになります。
ただ、日本画壇が水墨画一色であったと考えるのは誤りで、土佐派に代表されるよう
に、伝統的な大和絵の屏風も盛んに描かれています。
そしてこの時代、雪舟が登場し、日本式水墨画が確立されます。
雪舟は、室町時代の画僧です。遣明船で明に渡り、当時、日本の画家なら誰もが憧れ
た、中国の名勝を目にしました。
そして多くの山水画を目にし、ダイナミックな筆勢は、まさに自分の目指すべきスタ
イルと自覚。
当時の日本画の型にはまらない自らの画風を追求しようと決意します。
繊細で小さくまとまっていた日本の水墨画は彼の登場によって革新、確立されたとい
えます。
狩野派などは雪舟のことを師と仰ぎ、江戸時代になると多くの大名が彼の絵を買い求
めました。
さて、室町時代の日本美術はいかがでしたか。
様々な画派や画風が枝分かれして、次に続く絢爛豪華な桃山美術への下準備は
ばっちり整ったといった感じではないでしょうか。
安土桃山時代になると、ついに狩野永徳や長谷川等伯など、現代の画家たちも
憧れた画家たちが続々と登場してきます。
楽しみにお待ち下さい。
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それにしてもホームページの完成が楽しみです。
様々な趣向を凝らした内容になっております。
そしてホームページならではの情報発信等も考えておりますので、
皆さまも楽しみにお待ち下さい。
もう十一月も下旬です。
巷では「鬼滅の刃」が大流行ですね。
さあ、われわれWAO!も来年の50周年に向けて
「全集中」で取り組んで参りますのでよろしくお願い
致します。