《僕の兄とハックルベリー・フィン》
Vol-17で愚直の話をしましたので、私が最も尊敬して憧れた今は亡き私の長兄・小川 伊佐雄と、彼が生前こよなく愛したマーク・トゥエインの“トム ソーヤの冒険”に出てくるハックルベリーフィンの話をしましょう。
私的なことですが、お付き合いください。
私の兄は、出生間もなく戦争で父を亡くし、以後母が私の父と再婚するまで細腕で育てました。
ですから姓も和田ではなく小川のままです。
佐賀に疎開をしていた時の、母と兄の苦労話はよく聞かされていました。
とてもイヤな思い出らしく、今でも二人の顰めた顔を思い出します。
ココでは詳しく書きませんが、そのうち小説・『僕の兄貴』に書きますので読んでください。
また、数えきれないくらいある兄の“武勇伝”もその中で紹介して行きます。
乞う、ご期待ください。
話を本線に戻します。
兄と僕は17歳も違います。
高校生の学生服を着た兄に抱っこされている、赤ちゃんの私の写真があります。
弟である僕が言うのもおかしいですが、兄は本当に男前でした。
高校の同級生たちが悪戯で、東映のニューフェイスの募集に兄の写真を入れて応募しましたら、見事一次審査を合格したそうです。
硬派の兄は、凄く怒ったそうですが母はまんざらでもなかったそうです。
尊敬してやまない理由? そりぁ、いくつもありますよ。
喧嘩が無茶苦茶強い、当時は北九州で一番強かったのでは?
スポーツは万能。
なんでも出来る、 そして必ず一番になる。
柔道・空手・ボクシング・剣道・スキー・卓球・ボウリング・ゴルフetc。
特に水泳は凄かった、新日鉄では記録を持ってましたし、潜りは潜水のプロに教えていましたね。
辛抱強く、“絶体負けん! ”という勝ち気な性分は母譲りだったと思います。
そして酒がめっぽう強い、三升飲んでも平気でした。
でも因みに母は四升飲んでましたが。
性格は太陽のように明るく、愚直で一本気、そして涙脆く、情が深い。
昔TV番組で、“父親が子供たちと共に、家を飛び出した奥さんを探す”番組がありました。
“良子、帰ってきてくれ!お母さん、帰ってきて~!” それを観ていた兄は怒り狂い、即、テレビ局に『即刻放送を中断しろ! 子供たちが明日、学校で笑われるやろうがっ!』とか電話で苦情を言ってました。
チャネルを変えるなり、TVを消すなりすればよいのですが、“まだ、やりよる!”とか言って、TV画面を足蹴にして破壊したことが2~3回ありました。
本当に判り易い、単純で愚直な男でしたよ。
酔うと、必ず僕に『兄ちゃんはハックルベリーが好きや、とか、嫌な事があったら海か山に行け!とか そんな暗い落ち目の三度笠のような顔をするな!(これは今でも意味不明ですが)とか、あの柱時計の振り子のように、人生は悲しい方に振れた分だけ、楽しい方にも振れるのだ!』 などと言っていました。
機嫌が悪くなるので、僕はいつもフムフムと解ったような素ぶりをしていました。
食べることが大好き。
だから料理の腕前はプロ級。
“食べろ食べろ、飲め飲め!”が口癖でした。
でも僕の顔を見て、“美味しいものを腹いっぱい食べて、旨い酒を飲んで、仲の良い友とワッハワッハと大笑い” こんな幸せが、どこにあるんか? なんの不足があるんか? と大きな目を黒々と輝かせてたのを思い出します。
人間の不安や迷いは、おなか一杯になったら8割は消える、と言ってました。
だから、よく友人や後輩が相談に来る時は、まず腹いっぱい食べさせて、飲ませてから、“それで、何の相談か?” と聞くようにしていたそうです。
油彩画家を目指すことを諦め、僕が大学を中退した旨の報告に行くと、“お前は世界に出て漫画家になれ、金は無いけど食えなくなったら兄ちゃんが飯は食わしちゃる!” 面白い男になれよ!と笑いながら言われました。
ときどき思い出す、この兄の言葉は、今でも僕の大事な宝物です。
喧嘩? 滅相もない。
今で言う“北斗の拳”のラオウのような男ですよ。
勝ち目は200%ありません。
集英社 漫画 『北斗の拳』より
そんな兄が8年前、73歳で亡くなりました。
無くなる数年間は、“脊柱管狭窄症”で歩行が難しく、口数も減りベッドに横たわって人の話に頷くだけの毎日でした。
兄が子供の時に飼っていた犬が、家に忍び込んだ泥棒を捕まえ警察で表彰されたそうです。
その犬は警察で訓練を受けた名犬だったそうです。
動物が好きで、スポーツが好きで、海山自然が好きだった兄。
恐らく、片親で育っていく思春期の悔しさや寂寥感を、そういうものに夢中になることで、払拭していったんだろうと思います。
兄の嫁さん、僕の義姉ですが、とても気さくでユーモアの判る明るい人でした。
でも苦手なのが「船」と「犬」。
船は沈むから怖い、犬は噛むから嫌い。
兄同様、シンプルな精神構造の義姉でした。
ある時、あれほど犬は飼わないと約束したにも関わらず、兄が小犬と風呂に浸かっていたそうです。
あまりに長風呂なので、義姉が風呂を覗いたら小犬の頭にタオルを載せて、『怖かったねぇ怖かったねぇ』と話しかけていたそうな。
でもそんな義姉も時間がたてば、立派な犬好きになりました。
実は兄は、“動物管理センター”に行って、殺処分の予定の犬を見せてもらい、その中の一匹をもらい受けて来たのだそうです。
生前、僕が豆柴をペットショップで買って来た話をした時、烈火の如く叱られたのを覚えてます。
『何故お金で買うんか! 一匹でも助けてやれっちゃ!』 その時の小犬の名が、兄が大好きだった“ハックルベリー・フィン”からとった『ハック』です。
この犬は本当に賢かった。
そして自分を助け出してくれた兄を、まるで人間のような目で見つめ懐いていました。
人の言葉が判るように、兄の言うことは何でも理解してました。
今でも覚えていますが、 僕が兄貴の一家と海に遊びに行った時のことです。
海に行けば必ず海に潜り、サザエ・アワビ・タコ、その他魚を取ってきます。
“海には美味しいものがなんぼでもある” これは海に行った時の兄の口癖でした。
だから『兄ちゃんは海を汚す奴だけは許せん!』 と正義の味方のような顔をして叫んでいました。
兄は60歳過ぎても5分間は息を止められましたので、一回潜るとなかなか海面に上がって来ません。
するとハックは、心配そうな眼つきでワン、ワンと吠えるのです。
それでもなかなか海面に上がってこない兄が心配になり、最後は海にダイブ。
海面に上がって来た兄は、シュノーケルから勢いよく海水を吹き出しながら、“犬でもこれほど心配しよるのに、お前は弟のくせに何をのんびりしよるんかっ! ”と怒られたのを覚えています。
このハックが兄の『脊柱管狭窄症』が酷くなる前後に、行方不明になりました。
白内障で目が悪いので、おそらくフラフラ彷徨って、何処かで死んでしまったんだろうと思います。
兄は一週間、気が狂ったようにハックを探し続けましたが、最後は諦めたようで、自らもベッドに横たわって動こうとしませんでした。
ハックが居なくなってから、兄は暫く鬱病になり口数も減りました。
兄が危篤という知らせを聞いて病院に駆けつけ、兄の手を握り、兄の耳元に大声で“兄ちゃん”と叫びましたら、僕の手を強く握り返してくれました。
その翌日、兄は亡くなりました。
強くて頼もしくて明るくて誰からも好かれた、昭和を懸命に生きた愚直な男でした。
規律や束縛を嫌い、自由と自然と冒険を愛した天然児・ハックルベリー・フィン。
兄が何故、ハックルベリー・フィンが大好きだったか? 今の僕には十分解ります。
そしてこんな偉大な兄が居たこと、そして僕が弟であることに誇りを感じながら日々を過ごしています。
今頃天国で、母と仲良く大好きなお酒を飲んでることでしょう。
今回は私的な話に終始しました。
申し訳ありませんでした。
この続きは、小説『僕の兄貴』で。
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